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2007年05月 アーカイブ

2007年05月01日

対動画サイトのSEO対策

SEO対策

最近やったらめったら「SEO対策」という用語を聞きます。
ようはgoogleなどの検索エンジンの上位に検出されるよう、リンク対策したりtitleやmeta情報も含めサイト内で使用する用語をソフィスティケートさせまひょ、ということですね。

企業やビジネスでサイトを運営している方々はもちろん、僕などの個人サイトを開いている人間にとってもそこそこ気になることです。
人に「○○と入力して検索すればうちのサイト見れまっせ」と説明しておきながら、検索順位が2番以降だったりするとちょっと恥ずかしいものです。
そうならないためにも、ビジネスユースでなくてもそれなりに気にしておきたいものです。

ところで近年、youtubeなどの動画サイトがブレイクしていますが、この手のサイトを見ていていつも気になるのですが、どうもサムネイルがわかりづらいんですね。
youtubeだと、たとえば3分の動画ならちょうど真ん中、1分30秒の1コマが自動的にサムネイル化されるようですが、このコマがわけのわからん画面だったりすると困りものです。
大量に表示されるサムネイルの中から、お目当ての動画を探しづらく、「ああもういいや」なんてやけっぱちになって、目に付く関係のないサムネイル(グラマーな女性が挑発的なポーズをとっている的なサムネイル)をクリックしていたりします。
困ったもんですね。

で、ふと思ったのですが、これからの時代、企業にとってのSEO対策ってこういう部分にも目を向けるべきなのではないかなあ、と。
たとえばTVCM。
15秒か30秒かの真ん中に、ちょうどそのCMをあらわす最適なコマや訴求力のあるワンカットがくるよう調整するなんてどうでしょう。
「それを見たい」と思う人がイメージする「それ」を表す1枚がサムネイルになっていれば、より多くの人にアクセスされる動画コンテンツになるのではないでしょうか。
CMなんかの場合は、アップする側もおおよそ15秒・30秒と切りよくアップするでしょうから、より制作者側の意図が反映されやすいと思いますが……。

まあ、企業的には著作権うんぬんで、youtubeなどの動画サイトは「公認できない」のでしょうから、映像制作にあたって「動画サイト対策を」なんてことを懸案事項にあげるのは難しいのかもしれませんが……(宣伝効果は見込めるだろうから、大きな問題が発生しない限りは見てみぬふりのグレーゾーンくらい?)。

でももしそういう理由でネットから目をそむける(ないし法的な問題を重視し、現状サービスへの対応を意図的に後手後手にする)ようなことがあれば、ちと、無駄なんじゃないかなあ、なんて思えたりします。
ネットの場合、サービスが誕生した瞬間、すでに状況を覆すことはほぼ不可能なはずです。
例えば有名なところでいうと、法的な問題で2ちゃんねるみたいなサイトがつぶされても、匿名で罵詈雑言を言い合う掲示板って、他が作るだろうから根本的な解決になりません。

また「こういうことができる」というアイディア自体に対応しうる法整備が出来ても、突き詰めると個人であらゆるアイディアを実現し運営できるネットの世界では、あまり効果が期待できないかもしれません。
警察が自転車泥棒とイタズラ電話には対応できない的な、法整備云々以前の「物理的な許容力の限界」を、多くの方はすでに感づきちょりょちょろと悪さをされているはずです(googleイメージから引っ張ってこれるイメージ画像を、自サイト・ブログに貼り付けている人への取締りを、一体誰がし得るのでしょうか)。

ネットのサービスって案外、「出したもん勝ち」的なところがありますし……。
なら、問題含みでも現状行われるサービスに対してベターな対応って必要な気がします。
特にCMなんて著作権うんぬんより、youtubeでもなんでも、とにかく人の目に付くよう広まったほうがいいのだと思うのですが、これからのWeb動画時代、「対動画サイトのSEO対策」って、わりと重要な気がしますね。
SEO(Search Engine Optimization:検索エンジン最適化)って、なにも用語の選別やリンク対策だけじゃなく、新しい技術やムーブメントにあわせて、ベストを選ぶべきはずです。

といいますか、すでに用語検索って、googleでもyahooでもほぼ商品化されちゃって(用語広告だけの意味ではなく、「コンサルが指導して意図的に上位に上がっているビジネスサイト」という意も含め)、かなり窮屈になっています。

僕などはすでに検索サイトからサイトを見つけるより、ブックマークや信用しているニュースサイトとかからサイトを引っ張り出す機会が多くなっています。
用語検索の限界って、そろそろ見え隠れしているように思えます。
なにぶんスピードの速い世界、「おいおい、検索用語から引っ張る広告ってあまり効果が期待できないじゃん」なんてことになったら、まだ未開発と思しき動画サイトのSEO対策がバンバン出てくるのかも。
どんなサイトが、どんな形で勝っていくのか、ちょっと楽しみだったりします。

youtubeの駄目臭い検索結果を見ていると、できれば国産の動画サイトに勝ってほしいなあ、なんて思うのですが……、どうなんでしょう。
そういえば先日来、ちょっと興味があり「ニコニコ動画」を見ていたりするのですが、これはステキなシステムですね。
何がすごいって、アップする動画にしてもコメントにしても、「盛り上がってる感」をある程度「意図して」世間様に見せる事ができる点ですね。
能動的に価値判断しない(できない)と思しき脊髄反射的ユーザ層にはドンピシャではまるサービスかと(このコメント数でこういう流れだと「いいコンテンツなのでは」と思っちゃう、みたいな)。
これから広告と絡んでいくと、意外とすごいサービスになるのかも。
ちょっと無法地帯過ぎますが。

2007年05月07日

グルメ漫画と「めっちゃキャン」のこと

グルメ漫画

漫画の展開についてあれこれいうのは無粋なのかもしれませんが、少年誌などでみかけるグルメ漫画の展開って、ある種テンプレートみたいなところがあって面白いですよね。

グルメ漫画のパターンとして、次のような展開を良く見かけるような気がします。

(1)悪者登場
[悪事例]店をのっとる。近所にライバル店を作る。インチキ食材で客をだます。

(2)困る
[困る例]大体は主人公の同級生や知人、縁戚の店が困る。あとは町内の店やチェーン店にかなわない小さな店。
悪者に勝てない理由は「味」「コスト(向こうはなぜか大量資本で安く良い食材で提供している)」「派手さ(困っている店は堅実だけどありきたりなものを出している)」

(3)挑戦
[挑戦例]当然料理で対決。勝利条件は悪者の店を撤退。結果として客を取り戻すなど。
主人公の敗北条件は「自分たちの一員になれ」「お前の店ももらう」「一生下働きをさせてやる」「困っている店の奥さん(娘さん)をもらう」などなど、往々にして料理対決でどうこうしようというレベルのものではないことが多い。

(4)偵察
[偵察例]読者に対して、いかにライバルの料理が、ちょっとやそっとでは乗り越えられないものかを示すためにこの項目が入る。あるいは同じジャンルの他店に行き、その料理の難しさを知る。一種のグルメ漫画的レトリック。

(5)試行錯誤
[試行錯誤例]作る料理に対して、主人公の経験によって展開が分かれる。
→今まで作ったことのある料理の場合
一度ありきたりなものを作り困っている店の店主に食べさせるが「駄目だ、これだと○○さんとこの味には遠く及ばない……」と、助けてもらっている身でありながら、読者に「まだ一工夫足りない」ことを印象付けるためにわざわざ嫌なことを言う。
→今まで作ったことがない料理の場合
なぜか天才的なカンとテクニックで克服。
困っている店の店主の台詞例「ま、まさか。串うち3年、焼き一生といわれるうなぎを、たったの1週間で……」。
なお、こういった天才的テクニックのシーンが描かれると、対句的に「でも、いくら○○ちゃんの腕がよくても、絶対に克服できないものがあるんだ……、それは時間だ(→タレの熟成)」といった、腕だけでは解決できそうにない問題も登場するので油断ならない。

(6)勝負当日
[当日例]審査員は対決に関わり深い人が登場。たまに、あからさまに悪者サイドの審査員も登場するが、これは「ひいき目さえ押しのけるほど主人公の料理がうまかった」ことをあらわすためのドラマツルギーなので安心してよい。

(7)判定
[判定例]99%、先に試食を終えたほうが負ける(例外→鉄鍋ジャン!・他)。
80%の確立で主人公が後手で勝つ。また残り20%も「オレはこの料理を20年続けてきただけや。たった1週間でこれだけのものを作ったんや。あんさんの料理、すごかったで」となぜか悪者が理解をしめし、何事もなかったかのように翌週も連載は続く。

ちなみに主人公が勝つ場合、大概の場合1工夫で決まる(例:隠し味のパイナップル)。
しかもおおむね、『そのジャンルのプロならそれくらい知ってそうなものなんだけど……』と読者も怪訝に思うような工夫であっても、「く、くそう。こんなガキがこれだけの工夫を発見するとは……。負けたぜ」と大げさにおののいてくれるので工夫のしがいもあるというもの。

とまあ、こんな感じでしょうか。
あと、なぜか困っている店の奥さんや娘さんは、店主に比べると偉い美人が多かったりしますが、こりゃまあ、対決型グルメ漫画の多くが少年誌・青年誌なんだから仕方がないですね。
よく知りませんが、あるいは少女漫画やレディコミの場合は、すっごいイケメンでなよっとした面長なやつが、サディスティックな女料理人にいじめられるのを男パティシエが助け恋に落ちるボーイズラブ系グルメ漫画があるのかもしれませんね。

んー、しかしよくよく考えてみると、上でちょろりと書いたお決まりの展開例って、別にグルメ漫画に限ったことではなく、あらゆる少年漫画で見かける流れだったり。

敵が明確な悪意を持って攻撃を加えてきて、それを正攻法で打ち破り、場合によっては悪いほうも素直に負けを認めるさわやかな展開。
俗に「格闘とエロを出しときゃ人気が出る」といわれる漫画界においては、実に訴求力のある優れた展開なのかもしれません。

ただ、三度のメシよりメシが好きな僕としては、もっとこう、対決メインじゃなくて料理自体を楽しめたりする漫画のほうがいいかなあ、なんて思ったり。
後は料理業界とか、食材そのもののドラマとか、そういうのが見れるとうんちくとして楽しかったりします。
まあ、こんなものは個人の好みで選べばいいだけなんすけどね(僕は料理漫画ですと、「酒のほそ道」とか「クッキングパパ」なんかが肌にあったりします。あるいは人情もので「夏子の酒」「築地魚河岸三代目」的なのとか)。


ところで、最近ちょっと気に入ったグルメ漫画を1本。
「めっちゃキャン」という、月刊チャンピオンで連載している漫画ですが、先日コンビニで偶然単行本の2巻を立ち読みして、なんだかいいねえ、こういうの、と思えました。
一見するといわゆるパンツ漫画(よおく見てもパンツ漫画)なのですが、目を細め、邪念を捨て、念仏など唱えながらじっくり見ると、人情系グルメ漫画であることに気がつきます。

簡単な概要を言いますと――築地で仲卸業をしている店の娘(主人公・中学生・女)が魚と料理を通じて困っている人のために手助けをしてあげる、といった話です。
特にいいなあ、と思えたのは、てんぷら屋の相続の話。

伝統あるお店の店主が死に、その娘(たぶん20くらい?)がのれんを継ごうとしているのだが、遺言で後見役をまかされているてんぷら職人(店主の修行時代の兄弟子)の舌を満足させるものが作れず、のれんを継がせてもらえず失意の中にいる時、主人公が手助けを買ってでる。

主人公は兄弟子の店に偵察に出かけ、てんぷら職人の心意気とはなんたるかを理解し、娘にきつい言葉で遠まわしにそのことを教える。
娘は自分がてんぷら職人として何が足りないかに気がつき、兄弟子に、女性である弱さを捨て、熱い油にたじろがず立派なアナゴのてんぷらを作って差し出す。
ところがそれに手をつけない兄弟子、不安そうに「やはり食べてもらえないのか」とたずねる娘にたいし、涙を浮かべこう言った、
「…食わんでもわかるさ。『天翁』の名に恥じない、ウマいアナゴだ!」

こうして兄弟子の後押しを受け、改めて父親が残した店ののれんを継ぐことになった。

非常にストレート、単純明快、ですがそれがいいんですね。
得てして人情モノって、こう、どこか重いテーマだったり、結果誰かが不幸の影を背負ったまま、といったものが多いのですが(それはそれで重い話を楽しめるのですが)、この漫画の良いところは「後読感の良さ」ですね。
すっと入ってすっと出る、後味すっきり、こういったタイプの人情モノもまたいいものです。

ただ最近は掲載誌の性質のためか、どうもグルメ対決モノに傾きつつあるのがちょっと残念です。
できれば後味の良い人情グルメ漫画として、息長く続いてほしいものです。

ところで築地、都知事選がらみでよく知られるようになったみたいですが、ずいぶん前から豊洲に移転することが決まっており、現在の場所はあと数年で市場ではなくなります。
偶然、1年位前に築地に仕事で取材があり、仲卸をやっているとある女性にインタビューしたのですが、やっぱり結構大変みたいですね、移転。
場所的にはそう離れていないのですが、店を移動させるというのは遠い・近いの問題ではないですしね……。

個人的にも、今の築地の、いい意味で「雑」な感じが好きだったりしているので、ちょっと寂しく思えます。
豊洲のほうはフルトンマーケットをモデルに、一般客・観光客を広く受け入れられる体制にするとかしないとか。
んー、なんだかなあ……。

なんでもかんでもマスマーケット狙いにするのって、こう、しっくりこないんですね。
もちろんなんでもかんでも義理だ人情だというわけではないのですが、人の文化も感情も、多様性の中で深さを得るのだと思います。
ビジネスが常に「ビジネス」でない場所って、どこかに残ってほしいですね。

なんか関係ない話になっちゃった……。

2007年05月13日

秩父

秩父

「エロマンガ島」に比肩する、言いにくい地理用語「乳撫秩父」。
なぜ言いにくいか判らない人は、ママのお乳でも吸って出直してくださいね。

そんなわけで、思春期の方々は、その用語を頭に思い浮かべてはもやもやする「秩父」ですが、昨日バイクでぶらりと行ってきました。
(といいますか、実は長野まで行く予定だったのですが……。高速の案内標識に「佐久で事故・通行止め」と表示されており、面倒になり途中の秩父で降りただけなのですが)。

平井大橋から中央環状線にのり、外環道経由で関越に。
こうさらりと書くと「なんて高速になれたバイカーなのだろう!」と思われるかもしれませんが、首都高のるの2回目です、超ビギナーです。
ネットで何度ものり口と経路を確認し、復唱し、どきどきしながら走りました、かっこつけてすいません。

にしても首都高って、乗り口の進行方向が片方しかなく、「ちゃんと環状線のれたな、しめしめ」なんて思っていたら、目的地の間逆を進んでいた、なんてことも起こりえるため、イマイチのりたくないんですね、田舎モノなので。
でも確かにのってみると楽なんですよね、いつも下の道で何十分もかかる場所でもあっという間につきます。
バイクだろうがなんだろうが1区間700円という料金設定には納得いきませんが……。

そんなわけで、とろとろとバイクを走らせていると、小2時間くらいで秩父に到着。

秩父遠景

いいですねえ、どこもかしこも山・緑・山です。
秩父の市街地はともかく、山のほうに行くと人もクルマもほとんど見かけません。
思わず「やっほー」と叫ぶと、こだまは返ってきませんでしたが、いい年こいてそんなことを言っている自分に恥ずかしくなりました、死にたい。

寺院

「札所」というと四国の八十八箇所が有名ですが、秩父にも「三十四観音」という巡礼道があります。
上の写真はその1番目の札所、四萬部寺です。

お地蔵さん

境内にはたくさんのお地蔵さんが祭られています。
碑文を読むと、戦没者を慰霊するためのものだそうです。
戦没者、というと最近は何か政治の駆け引きに使われるカードのように見られがちですが、そもそもは(そもそもはという言い方も悲しいですが)ひとつひとつの悲しい死のはずです。

戦没者というと、石垣りんの文章を思い出します。
下記は一部抜粋したものです。

死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。

(中略)

戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。

「礼など」思潮社刊

命への感慨って、個々の気持ちの持ちようです。
戦争は政治が起こすものですが、死は人が招き感じるもの。
望まない死は、望む人がいて初めて発生することなのだと、石垣は言いたかったのかもしれませんね。

なんにしても、先の戦争に関わった政治の主体同士が、戦没者の命に関して「政治的に」云々と言い合っているのは悲しいことです。
死はその命を取り巻いていた人々、個々人のものでしょうから。
(そういえば原典は失念してしまいましたが、石垣は別の詩で「死は残された者のものでしかない」ことを、ある種の諦観をもって語っていたような記憶が。石垣の死生観は読みごたえがありますね、今度読み返してみようかな)。

藤の花

寺を出て再び山道へ。
そうそう、今、藤の花が最盛期なんですね。
大分にいる頃は近所のいたるところで咲いていたので気がついたものですが、東京にいるとこういった季節感ってなくなっちゃいますね、ふうむ。

薪

山奥の家々では薪を蓄えているところも良く見かけます。
こういう風景って、いいですよねー。
日本人にはまさに原風景というか、郷愁を感じるのではないでしょうか。

こう、光景が浮かびますよね。
雪深い季節、暖炉に薪をくべるおじいさんとおばあさん。
傍らには都会から遊びにきた孫。
で、この孫はそのまま寝ちゃって、一酸化炭素中毒になって……。
孫の死を嘆く祖母、絶望のあまり自らも暖炉の中へ。
やがてその家(間宮家)は亡霊のでる館、「スウィート・ホーム」として知られることになった。

いやあ、怖い、怖い。
あ、でも昔の木造家屋って、結構すきまが多くて換気されていたらしく、案外大丈夫だそうですね。
都会的な気密性の高い家じゃないと、一酸化炭素中毒とかって問題にならないのかしら?(よくわかりませんが……)


ところでこんな、日本人ならきっと「なつかしいなあ、いい風景だなあ」と思える上のような写真。
ところが1点、イラストを加えるだけであっという間にがっかりな写真になっちゃいます。
たとえば次のようなものです。↓











環境保護団体

ね? がっかりでしょ?


あ、でも最近だと、こういうのもジョーダンではなくなりつつあるのかも。
色々うるさいですからね、自宅でゴミ燃やすくらいのことも駄目らしいですし、薪の暖炉なんかもそのうち環境団体の運動なんかで駄目になっちゃうのかもしれませんね。


にしても、環境保護団体の方々とかって、まあ、有効な部分もあるかと思いますので、関わっていない人間があれこれいうものではないのですが、どうもこう、ニュースとか見ているときな臭い部分が多々あるように感じます。

たとえば一匹の貴重な動物を守るため、ケガした彼らを救助するとかいう理由で森の奥までクルマで突っ走って行くとかって、どうなんでしょう?
もちろん動物たちを守るのは大切なことですが、特定の動物を守ることが自然のバランスを壊すことだってありますし、そもそも道路なんか作るから動物が減ったわけですし……。

だとすると反対すべきは大本の近代文化や便利な生活だったり?
素っ裸で家も家電もスーパーもない生活をし、ビルをぶっ壊して森にするとか。
でも多分、そういうのは現実的に無理、だからできる範囲でやりまひょ、ということなんでしょうね。

ただ、「彼らができる範囲での活動」というものは、「彼らができないと想定しているはずのこと(=現実的に無理。あるいは自分に不利益があること、自分の生活には当てはめられないこと)」と同じように、誰かしらが不利益をこうむることでもあります。
焼畑農業をやっているのに、ダイオキシンがでるし自然保護しなきゃだめなのでやめてくれと言えば、その人も困っちゃうでしょうし。
もちろん、ある観点にたてば、誰かに不利益があってもやるべきことはあるはずです。
ただ、度の過ぎた正義感は、正義感のための正義になり、実の伴わないことにもなりえるように思えたり。

最近では鯨の保護をしすぎたせいで、鯨の頭数が増え、海の生態系のバランスが崩れつつあるのだとか(捕鯨国である日本の独自の調べらしいので、本当に科学的に正しいのかどうかはわかりませんが)。
鯨は哺乳類で人間の仲間だから殺すやつは野蛮だ、と二酸化炭素をまきちらしながら肥える哺乳類・牛のバーガーをかじりつつ訴える人たちって、客観的に見ていかがなものかと思っちゃうのですが、どうなんでしょう(反捕鯨は環境問題としてきちんと考えるべき、というのが最近の主流みたいですが。「日本はなぜ世界で一番クジラを殺すのか」という本に詳しいそうで、今度読んでみようかなあ)。

個人的には鯨肉なんて食べないし、愛らしい姿をしているんで鯨君に手ぇ出さなくてもいいんでね? とは思いますが。
でも日本以外でも、小さな島国で捕鯨が主要な産業となっているところもあるそうで、頭ごなしに「捕鯨は悪ですよ、やっちゃうやつはみな悪魔ですよ」なんていわれると、結構かわいそうな気も。

大なり小なり、何かを守るためには何かが犠牲になるもの、本気で動物の保護をしたいならみんなベジタリアンにならなきゃいけないんでしょうし、植物を守りたいなら岩でもかじるしかありません。
無論、みんながみんな、そうできるわきゃないのですが、だからといって限定した範囲内で正義を貫こうとしても、やっぱり困ったことになる人もいるはずです。
落としどころはよく考えたほうがいいように思えます。
山奥の人が暖をとるための薪がダイオキシンと森林伐採を招くとバツが出るような世の中にはならないでほしいものですね。

個人的には環境保護とかって、たとえば漁師さんが小さいものや捕りすぎた魚は海にかえしてあげるとか、日々の生活でリサイクルできるものはリサイクルして、買ったものは腐る前においしくいただきましょ、くらいのニュアンスが一番自然な形に思えるのですが、どうなんでしょう。
権力でも財力でもそうですが、大きな力と思想を持った正義って、ちょっと怖いなあ、と。


ええと、何の話でしたっけ。
ああそうそう、秩父の話でしたね。

遠景

それにしてもいいところです。
緑一色の風景、心がなごみます。
緑一色、つまり役満ですね、心がなごむはずです。

コスプレ団体

おなかがすいたのでそばでも食おうと店の駐車場にバイクをとめると、変な格好をした人々が次から次へと道路を横切る姿を発見。
ざっと列を見る限り、数百人はいる感じです。
なんじゃあれ、と不思議に思い店に入り、お店の人に聞くと、なんか早稲田大学の学生が100キロウォーキングとかいうのをやっていて、その人たちなのだそうです(店にも何人か入って休憩していったそうです)。
ただ歩くだけだと面白くないということでコスプレしているのだとか。
んー、若いっていいなあ。

そば

そういやこういう山の方って、なぜか必ず「10割そば」「手打ちそば」みたいな店がありますよね。
で、大体脱サラをして、夢のそば屋を、みたいな感じで。
いや、おいしいし、山の自然を見ながらメシ食うのは気持ちがいいのですが、なんでそば屋なんでしょう?
ラーメンでもスパゲティでもいいような気がしますが……。
やっぱり「こだわり感」や「都会に疲れた感」「きれいな水で磨かれた感」が脱サラサラリーマンに合うのでしょうか。
セオリーとしてこういうそば屋には糟糠の妻的な人が給仕をしてくれますが、ここも例にもれずそうでした。
んー、この国の1つの形なんでしょうねー、ほんとか?

[追記]「秩父」はちょっとあれな地名、と書きましたが、世界は広いもの、はるか上を行く地名がわんさかありました。
http://ankyo.at.infoseek.co.jp/chinmei.html
しかしこういうとこ、狙って行く人がいるもんなんすね、やっぱ。

2007年05月20日

電車と女の一人旅

旅

昔から色んなところをぶらぶらするのが好きで、鈍行から新幹線まで、電車にもよくお世話になりました。
ただ最近はもっぱらバイクでうろちょろするため、仕事で使ったり地下鉄に乗ったりする以外はすっかり疎遠になってしまいました。

電車旅、いいですよね。
先日テレビで、「定年退職した老夫婦が『青春18キップ』で旅をする」みたいな番組をやっていましたが、旅はいくつになっても青き春行く鈍行列車なのでしょう。
のんびりと風景を眺めながら、時々到着駅で駅弁を買ってつまみ、特急列車が行くのを待つとか。
ううむ、たまには適当な普通列車に乗り、だらだらと旅するのもいいかもしれません。
18キップを使い切るほどの時間を見つけるほうが大変そうですが……。

田舎のほうに行くと、結構土地の人の足として利用される単線などに出くわしますが、乗ると面白いですね。
農具を持った田植え帰りと思しき人や部活帰りの学生たちが、日常ではない旅行者の存在に気をとめることなく、風景を眺め、仲間と話している様は、単線の緩やかなゆれにも似た、土地ならではの柔らかな時の流れを感じさせます。

そういえば僕の地元では未だに無人駅があります。
無人なので駅の入り口から入る必要もなく、駅の対面にある家の軒先からひょろりと線路を越え、何事もなかったかのようにホームのベンチに座る人なんかもいます。
もちろん中にはちゃっかりキセルする悪い人もいるのでしょうが、未だに廃線にならずに列車が走っているのを見ると、皆さんきちんと運賃を払っているはずです。
それを必要とする人たちが、システムに不備があってもきちんと支えている、というのはいいものです。

東京の駅や電車は――と、なんでも都会と田舎を比較するのってナンセンスなんでしょうが――どこか合理的にすぎて、こう、時々窮屈に感じることがあります。
カードや自動改札なんかもそうですが、たとえばお手洗い。
東京の駅のお手洗いって、大体構内にあるようですが、なんでかなあとふと考えると、これっておそらく浮浪者が備品をもっていったり寝付いたりしないためなんでしょうね。
(中にはバリアフリーのトイレなどには鍵がかけられていたり。これも同様の理由らしいのですが、困っている人がすぐに利用できない設備って何の意味があるんでしょうね? 車椅子用のリフトとか)
なんだか電車や駅を構成するすべての要素に、いちいち何らかの理由があるように思えて、なんだかちょっと、と思うわけです。

*

さて、電車で旅をする旅人が一度は見てみたいと憧れるのは、なんといっても「女性の一人旅姿」でしょうね。
いや、なんというか、こう、たとえば大きなバッグをかかえたうら若い女性が、うつろな目で外を眺めていたら、色々想像しちゃいますよね。
蒸発し消えてしまった夫、その記憶を振り払おうと思い出の海へ赴き、夫の使っていた歯ブラシやネクタイを捨てようとしているんだなあ、おそらく、なんて。

ところで女性の一人旅って昔から「なんだかちょっと特殊な状況では」と思われがちですが、これ、なんででしょう?
きっと一人で旅をする女性が少ないからなんでしょうが、ではなんで女性は一人旅しないのでしょうか?
で、この前知り合いの女性に偶然「なんで一人旅しないんだろう?」と聴いたところ、「だって面白くないじゃん」とのことでした。
一人で旅してもおしゃべりもできないし、何をしていいかわからない、というのがその人の理由でした。

これは意外と目からうろこでした。
僕は皆さんと行く旅行も好きですが、一人で旅行するのは集団の旅行とはまったく別種類の楽しみなんじゃなかろうか、と思っていたんですね。
自分のペースで移動し、好きなときにメシを食って、好きなときに寝る。
見たい風景を見て、感じたい感慨を抱く、それが一人旅の醍醐味だろうなあ、と。

なので面白くないとは意外だなあ、と思うと同時に、あるいは正しいのかなあ、とも思えました。
旅行は日常の延長として、リラックスした状態でこそ楽しめるもの。
たとえば昔のヨーロッパの貴族なんかが避暑で旅行するときなど、馬車何台も引き連れて、いつも使っている家具やらなんやらも持っていっていたそうです。
これもあるいはリラックスして特殊な状況を楽しむためのものだったのかもしれません。
いつもの仲間と一緒だからこそ旅は楽しいというのも正論なんでしょうね。

んー、一人旅にある種のロマンチシズムを求めるというのも、まだまだ青い証拠かもしれませんね。
まだ27歳だし。
もうすぐ誕生日だけど。

2007年05月26日

加齢と家庭

加齢

先日、無事加齢しました。
もう28です。
めでたいですね。
別にめでたくないやい! 年なんてとりたくねえや、ぺっ!
こうなったらサバよんでやる! オレ様まだ3歳、バブーだぜ!
オレ様は28にも何を言ってるんだ、くそう……。

と、一人憤っている間にも月日はたっていくわけです、諸行無情ですね、出家するかな。
んー、ただ加齢といっても実はあまり実感がなかったりします。

28というのは18歳になるのとはちと違います。
そんなにダイナミズムを持った変化ではなく、世間的にも個々人的にも、「しかるべき通過の一つ」程度の印象しかないのではないでしょうか。
ただ30に近づいているというのは、結構、こう、思うところがあるわけです。

30、三十路、サーティ、サーティワンアイス。
アイス食いたいね、でも食べ過ぎるとメタボリッちゃいますよね、怖いですね、30超えるとね。
そうか、そういう意味だったのか、サーティワンアイス。
中性脂肪の友、動物性脂肪がたっぷり! 30超えたらサーティワン。

そんなわけで(?)大台を目の前にしているという意味では、色々感じ入ってしまいます。
30歳。
おそらく10年前、20年前の僕が想像した30前後の人生の形と、今あるそれには、(あらゆる人が持っているであろう)大きく深い溝が存在します。
ただ僕の場合――よく人には勘違いされますが――別段、人様に自慢できる立派で豪華な人生を望んでいたわけではないんですね。
ささやかな家庭でも持ち、子どもと歩く土手の夕焼け道、的な30歳だったんです。

黄昏時、川面の赤い照り返しがやわらかい時間の縁をなぞり、
初夏を過ぎ行く風の香が草木を揺らす土手の道。
幼きわが子の手をとり、川沿いを歩く自身の影を、遠く見つめる。
おそらく、柔き手の主はやがてこの影の長さに近づき、追い越していくのだろう。
そして私は、それを強く望んでいる。
過ぎ行く時間の影の長さは、暮れなずむ景色の先に、確かな未来を描いているように見えた。

――そんな30前後のひと時を思い浮かべていたんです。

まあ、結果としては28にもなってだらだらとヒトリミで過ごしているのですが。
大体東京に住んでいると、あるのはドブ川の土手くらいなもの。
とりあえずは土手の緑化運動でもするしかないですね。
いわゆるボランティア系市民団体です。
東京に緑がないのはすべて政治と若者とゲームのせいです、今すぐ改革しましょう。
困ったもんですな。

何が困ったかって、月曜朝イチに完成しておかないといけない仕事が山のように残っていることですね。
サイトの更新なんてしている場合ではございませんな。
時間が無いと部屋の模様替えなんかしたくなる、あれ的心理ってやつですね。
誰か助けておくれ!

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